わたしにできること。|What i can do.

2022.03.11

11年前の3月10日の雪が降る日にお腹に娘がいる2人分のからだを抱え、
なんとか札幌の実家に帰り着いてからこんなにも時が経ちました。

私にとっては3月10日と3月11日は地続きの2日間で
それは震災前日に故郷に帰ったことで被災らしい被災をせずに済み
タイミングに命を守られて今がある、と思わずにいられないからです。

本当に時は止まらないなあ、と茫然とすると共に
復興どころか今の世ではコロナも収まらぬまま
戦争まで近くで起きていて 核は脅しの道具として用いられ
これ以上悪いことなんて起きるはずがないなんてどこかで思っていたお花畑だった昔の自分に
おい、11年後世界は人間はもっと愚かなことになってるぞ、と叫んで教えたいくらいだけれど。

当時お産を控えて、もうじゅうぶん目の前のことにキャパオーバーだった自分がそれを聞いたとて
「いま」という「未来」は変わっていたろうか。
時は戻らない。とさらに愕然とした気持ちになります。

明るい「未来」を描けないまま11年後の「今」を迎えていることに、
10歳の娘の
「人間がいないほうが地球も動物も壊れされないで済みそうだよね。人間ってろくなことしてないね。」という発言にぐうの音も出ないことに、ますます無力感と後ろめたさを感じずにはいられませんが、これが現実だものな。

目をそらさず「今ここ」から出来ることを。
大きな復興を描くよりも自分の身の丈と環境に合った
小さな自給と身近な助け合いを積み重ねること。
足元をよく見て愉しくつくりはたらくこと。

つまりは出来る時に出来ることを確実に進めるだとか、
自分が力を出せない時はじっと休むか力を蓄えるかする、というごくあたりまえのことだけれど

「よいあたりまえ」や
「素晴らしい智慧」を

具体的に描けないまま、大きい復興を打ち立てるなんて無理な話、
というのはもう誰もが気づいていることで。
気づいていながらも軌道修正されないあれこれに時間と気持ちを割くよりも
(もちろん維持検討はずっと必要ですが)
ばらばらな個々がそれぞれに解像度をあげて
自分に向いていること、頼まれなくても出来ることに邁進していくほうが
結果未来が明るくなる気がしますね、なんだかね。

あまりに世の中は暗いから手元にある蝋燭かランプで
自分ちのテーブルだけでも明るく照らそうか、みたいなイメージ。

誰かがそのテーブルに加わるなら急いでおむすび握ろうか。
みたいな感じなら、私にも想像がつくしなんとか出来そうです。

自分たちなら顔が思い浮かぶ誰かを直接助けたり喜ばせるほうが得意かもな。
と11年経った今は思うので、
自分たちの考えや体験を、見えるようにする。仕組みをつくる。
他の誰かでも同じことが出来るように伝達する。

というごくシンプルな選択と実践を毎日続けていこう。
いきたいな、と思います。
見てみぬふり、ではなくて、行動の優先順位を「自分の得意」に寄せることで、小さく目の前が変わるならそのほうがずっといい。
今日からさらに11年後、こんな気持ちになりたくない。

未来の自分に、娘に、

「昔こつこつやった時の成果で
 いまこんなことが出来てるよ。
 私たちも◯◯さんも元気だよ。」

という嬉しい報告がひとつでも出来るように。
明るく言えることが、1つでも増えているように。

自分にできることを考えて、出来るようになったことを手放さぬように。
誰かにも手渡せるようにしていきたいです。

関連する記事