春からは、毎日この景色が見られるんだな。贅沢で、豊かなことです。ここで生きてるだけで、こんな景色見られるだけでありがたや、ってなりそう。私たちが思い浮べている、云う「豊かさ」は、一般的な豊かさとは違うのかもしれない。一方で「一般的」て何だい、「一般的な豊かさ」とか「幸せ」なんてあるのかい?ねえよ!と、ずっと思ってますけど。
かといって、貧乏最高、お金より愛、とかも思ってません。お金、好きだし。すきあらば旅したいしつくりたいからお金は大事。が、みんなが共通で計れる尺度でさすと、それは経済的な豊かさくらいでしか幸せの例えが浮かばんよね、という消去法でそうなってるのかなあと思うと、そんな後ろ向きな尺度に自分たちの「ふつう」を振り回されるのはまっぴらごめんでして、求めてるのは「よくわかんないけど幸せそうで、一般的に豊か」では無い。稼がなくてよい、ということではなく、我ら庶民が頑張っても上限は見える訳で、お金、という紙幣の物質としては存在しなくなりデータに近いかたちになっていくし、データ的お金の勘定に対して自分たちを鼓舞してもそんなにテンションは上がりませんで、生きる気力体力にも上限があるのだから、別の方向でたっぷり、楽しく使いたい。
あるものをどれだけ使って暮らせるか、とか小さな家庭内での教育の自給、とか目に見える、顔が浮かぶ範囲のコミュニティや自治を良くできたらなー、とか、目の前に迫っていることの幾つかは、お金で解決できないことのほうがよっぽど多い。逆にいうと、お金で解決出来ることのほうが楽で、そうでないから国も地方も世界も困り事に事欠かなくて。
資本がお金ではなく、アイディア、人力、とか環境、とか、デザインなどで良い場合は、最小単位でよいなら自分と時間をめいっぱい使えれば、お金でやり取りしているほうの力を使わずして、豊かさを生み出していける気がして、そのほうが真の意味で「経済的」なんではなかろうかと思ったりします。資本力は変わらずして(まあそうは問屋が卸さないのでしょうが)人力と時間をかけて信頼と利益が生まれていくほうが、このあとの私たちを実質的に豊かに支えていってくれるだろう、という予感がします。
それをさっぽろでなく、なんで洞爺で?みずうみのある地方で?となったかについては、またおいおい。なんて、洞爺にてんてんとあり続けている、増えているひとの輪と美しいみずうみと、あとは勘でーす、としかまだ説明が出来ないのだけれども。住んでみてから、その「勘」が果たして自分たちにあっていたのかどうか、検証してみようと思います。文字どおりに、手探りで探すしかないのは、うんと楽しみで、楽しみで、そして怖い。笑その怖さが、後から大笑いしてしまえるくらいのものであると信じて、まずは飛び込んでみようと思います。